TaraMovies/2002-09-18
;CINE;ドニー・ダーコinシネマスクエアとうきゅう
- 妄想ボンクラ(童貞)が、
- 三番館で
- ハロウィンなのでCOLOR(Darkorchid):「死霊のはらわた」COLOR(BLACK):を
- 鑑賞している肩で彼女は寝息 といったシチュエーションであれば、何が起こってもいいという正しい映画。88年という年になにかしら、すぽっと、次元の穴があいていてもありそうだなあと思えるのだった。大学二年の夏、ですか>俺。
;CINE;「なごり雪」談話会付特別試写会
TaraMovies/2002-09-18/nago_simpo.jpg
仕事後、九段下へ急行する。といっても仕事場からは九段下は近い、ことがよくわかった。きちんと開場前に到着する。九段会館も久しぶりだ。
入場すると大手映画会社の試写会と比べてえらく会場内の人数が落ち着いている。それでも日ごろからの行列があったためなのか着座したのはあとのほうだったのだが空席もちらほら見えるし、2階3階席に人影が見当たらない。当選枠が少なかったのかそれとも...。壇上は既に談話会のセッティングが済んでおり、ご覧のとおりだ。といっても白味の調整がはかれないために写真では文字の類はいっさい飛んでしまっているのだが。
時間になるとパネラー4名が入ってきた。
COLOR(indianRed):大林
監督、「おれがあいつで〜」原作の
COLOR(indianRed):山中恒
、映画の舞台となった臼杵市の市長後藤国利、そして
COLOR(indianRed):筑紫哲也
という面々。談話タイトルは「映画と、古里と、日本の幸福。」。それぞれの持つ古里、日本の在りし日の風景風情に対する思いとそれに対するスタンス、といった中身で交互に思い思いの言葉を吐く、といった中身だ。大分県臼杵市の「選択しなかった道」の30年余と日本の現在とを対比して語られた。山中氏の出身は小樽ということであの運河が埋め立てられた話とかマイカルのオープンに関する逸話と村おこしの話などは実際に小樽に行ったこともあり、うなづける部分も多かった。これは臼杵も尾道も行ったことがないところだからなのかもしれない。
COLOR(indianRed):大林宣彦
はトーク後半でやはり昨日の「拉致疑惑」の結末とともに9・11について引用しながら、「あの映像(ツインタワー特攻)に何者も勝てない」ことと現行ハリウッドの、というか映像作家たちが産み出したやもしれない、あの光景について語る。そういえば、「原爆のキノコ雲の美しさ」について吐露したのも彼だったか。劇場で大林作品は
COLOR(Darkorchid):「ふたり」
しか体感していない俺だが、確か原爆もの〜その後
COLOR(indianRed):緒川たまき
あたりで演劇にもなったやつのテレビ版だったかが彼の作品ではなかったか。すべて見ることはできなかったが、そのクライマックスのシーンがけっこう印象に残っている。
基本的に映画監督が上映前に自作について語る、というのは
COLOR(indianRed):宮沢りえ
のヌード写真集会見のときのような気分で、どうにも居づらいものだ。その気持ちは変わらないのだが自作の内容に踏み込む部分は控えめだったことはよし。この映画自身、大手プロモで成り立っていない作品だったことを知り、送られてきた招待状の簡素さ、また会場の人数についても知れたのだった。
COLOR(indianRed):筑紫哲也COLOR(BLACK):が急の司会役〜自由にそれぞれの談話にコメントできる役柄ではあった〜を時間きっかりにしめて10分間の休憩となった。
人の過去に「さわる」映画のこと
誰もが置き換え可能な過去を持つ、「記憶にさわり」「その記憶ゆえに物語を二重十重に膨らませる」タイプの映画がある。もちろん、俺をして映画を観て「幻視」と言わしめているのはそのそこはかとない映画断片であったり自らの体験過去の記憶の生み出す「そこにない映像」をそこに視る、つまりは幽霊のようなもののことだ。この手の映画は、映画そのものの出来不出来、シナリオに酔う、とか、シチュエーションに酔う、またはキャラクターに惚れる、惚れるだけの演技がそこにある、といったことを遮断した上で評価されることもしばしば、というか評価されることが多く、「映画」としてどうなの?と思うことも多い。
「木綿のハンカチーフ」な体験なぞ、性行為に及ぶ及ばない、「付き合う付き合わない」をさておき、ほんとに誰でも一定の年齢であれば経験していることだろうし、いわんや、たとえば帰省したときにひょいと訪れた小学校のOBの部活見学を幼馴染としていて、そこにいた中学生に
SIZE(20):興味をもたれて
、実家に遊びにこられたり、大学に戻ってからもちょっと文通があったりといった体験を持つものがそこをして揺さぶられるのもせんなきことだろう。この手の映画の存在を否定することなどとてもできやしない。
ただ、尾道を舞台にした大林作品を劇場以外でも少々、ほんの少々でも見ているものとしてみれば、今回、いい感じで力が抜けている。つまり、自らの体験や目にした光景などといったこだわりや妄想だけで突っ走ることのできない臼杵という街への程よい距離感があってこそ、「50歳の現実」に詰め寄ることができたのではないか、と思った。
と、固いことは抜きに、なにより
COLOR(indianRed):宝生舞
の胸だろう。写ったのは刹那。しかしこちらには
COLOR(indianred):小林よしのり
著「直前ファイター」よろしく、そういった画像はどんな場合でも網膜に焼き付けてッ、毎日見ているハブラシと同じようにッ騙れる!!!!!もしや初披露目か?と思いながらも、断定する材料はなし。そのふくよかな顔からも想像の付く腹部のぽったりした肉付きに、心得た!と言い放ちそうななだらかな丘陵。その先には挑発気味に上を向き、まだ使用前のほのかな淡いピンク色の乳輪。小さめのぽっちッ!!好きだッその胸ッ!「他人の過去に依拠する映画は存在を許されない」という命題を覆すには、ほっこりと乳首がシャシンにあればいいのだ。あえて重要そうに思えないところで飛び出した乳首の重さこそ、この監督がいまだ戦闘中であることをいたいほど俺の息子も感じたぜ。
劇中歌の意味と奏でられない絵の中で
COLOR(Darkorchid):「インソムニア」
は歌詞付楽曲を使用しないことに大きな意味があった。対して字幕が出されないので全くわからなかったものの選曲のよさ〜80年代の「重いほう」が耳に残る
COLOR(Darkorchid):「ドニー・ダーコ」
、そしてその音熱も冷めぬままに楽曲原作となった本作。「なごり雪」そのものは
COLOR(indianRed):イルカ
の歌声で記憶されているがなんか以前にもこの歌が使われている媒体なかったか、と思い、もしや間違っているかもしれないが
COLOR(indianRed):ジョージ秋山
作品になかったかと思い至る。
TaraMovies/2002-09-18/themoonsansu.jpeg
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COLOR(indianRed):ジョージ秋山
作品では歌詞付楽曲がよく引用されているのが掘り起こされる。これは記憶違いではないのだが「バラの坂道」のクライマックスに流れる「オーシャンゼリゼ」の根太さは読了後25年余にいたる今でも強烈に刻まれている。ある意味シャンソンへのトラウマか。「ネコまんまのジョージ」だったかでも、「おふくろさん」が効果的、というかプロモーションコミックかよ、といったいきおいで使用されていた。
ということで、そうかこの映画ジョージ秋山世界だったのか、と主人公・
COLOR(indianRed):三浦友和
、友人
COLOR(indianRed):ベンガル
をジョージ秋山タッチで再現。慟哭、号泣がやはりジョージ秋山だ。